◎   「神われと共にあり」と実感できれる信心。。   神の声をキャッチできれる修練。。。。

昭和四十四年六月八日 夜の御教話


 神様と共にと、いわゆる「神、われと共にあり」といったようなことをいうけれども、それが実感的にですね、本当に神様と私とがいつも一緒にあるなということをね、感じ取らせて頂く神経というか、そういう信心を、そういう神経をいわば磨いていくのが信心だと思うです。ですからね、あの、もうここにいつも神様を感じておれれるおかげを頂かねば、それには私は成り行きを大事にせよといったようなことと同時に、これは勿論ですけれど、まあ例えば、一枝の花が咲いておる。ね、一枝折れたら奇麗に取れた。はあ、もう一枝取ろうかと思ったら葉がついていてなかなか取れない。あんなときあるでしょうが。そういう時に無理に取っちゃならん。もう神様は「これでやめとけ」とおっしゃておるんだと、そこに神の声を聞かにゃいけんのです。
 これはもう一事が万事そうなんですからね、そこんところを心がけとくと、ちょっと強引であったり無理がいきよるときにお詫びが出来るしね、またそれで本当のたとえば道を間違わずに済むことが出来るのですよ。もう絶えずそういう働きがあっておる。
 私は夕食をいつも噴水の前でこのごろひとり頂きよるんですけれども、その後に私しゃもう鯉に餌をてらしておりますから、私しゃどんぶりに半分ばっかり、必ずそのご飯をあそこに入れてね、それで私が鯉にやるんですよ。もうおもしろいごと、またたくまに食べてしまうです。ちょうどやってしもうとるところにひろみちくんが来たもんですから、私おもしろがらせようと思うてね、わざわざどんぶりにご飯をついでこいちゅうて、ほいでご飯ついでこらせて、まあ、この人と栄四郎くんが二人でやっとったんです、ね、だからこれはもう、必要じゃなかったんですね。
 もうおもしろがらせ、そういう人間心、今朝のご理解からいうといらなかったんです。しばらくしよったら、栄四郎が、「お父さん、済みません」というて、抹茶茶碗じゃったんです、そのご飯をついできとったのは。抹茶茶碗にご飯をついできとったところが、真二つに割ってるんですよね。そういうときに私はハッとこうやっぱし、そのくらいのことのなかにでも感じますよね。ね、あれはもう必要じゃなかったんだと。あの人間心は必要じゃなかったんだということなんですよね。だからそういうようにね、本当に一枝の花を折るにしてもです、「許された」というようでなからねばいけません。許されないときには、もうなかなかその枝が採りにくいというようなことになってくる。それを無理してまたこげたま切って採ろうなんてことはいけない。もう絶えず神の声をそこに聞かしてもらう修練というかね、これはやはりあの、心をいつも神様に向ける修行をしておるときでないと、それをキャッチすることが出来ません。だからこそ、神われと共にあるんだな、という心強い実感がいつも頂けるんですよね。どうぞ